4 人見町地区発展の経過
人見町は函館大火(昭和9年)直後現在の人見町10番に共愛住宅が建設
されたのが始まりであり、当時、市内の高級住宅であった桜町通り(現在の
杉並電停)から人見町方行の大通の中間あたりから、畑と雑草が茂る湿地
帯で、わずかばかりの民家が転々と見え、遥か彼方に少年刑務所の塀と今は
その面影はないが、石川啄木が「東海の磯の小島の白砂に、我泣きぬれて
蟹とたわむる」と有名な歌を詠んだ日の出町の砂山が展望され、夏の夜は
カエルの鳴き声、秋きには虫の鳴く声、冬は人の通行もまばらで現在では
想像もできない寂しい地域であった。
昭和22年に至り、戦後の復興目覚ましく、特に石炭産業と並んで日本経済
復興の役割を果たした日本国有鉄道が、満州・樺太など外地からの引揚げ
者を大量に採用、青函連絡船の拡充と共に、その職員住宅を昭和22年〜24年
にかけて現在の人見町7番〜8番に建設、9番には鉄道母子住宅が建設された
のである。(現在のひとみ保育園・道営人見団地)
時期を同じくして市営住宅も人見町17番〜24番に建設され、交通機関と
して市営バスが運行、急速に新興住宅として注目され、商店も相次いで
進出、北海道警察人見交番・人見郵便局・人見児童館など公的機関誘致に
成功、更に昭和35年より1棟2戸の国鉄官舎を取り壊し4階〜5階建ての高層
住宅に建て変えたことにより、住民数も大幅に増加、金堀小学校も市内で
生徒数の多い学校へと発展したのである。
昭和50年より日本経済も減速し、合理化により国有鉄道が民営化され
青函トンネルの開通もあり、大量の人員整理と共に、高層住宅も老築化に
より取り壊され最盛期には750の会員数が550名に激減となった。
平成22年現在は、JR貨物株式会社の社員が入居している408号棟と
411号棟・所帯数60所帯を残すのみとなった。