2 人見町の 名称の由来
角川地名大辞典『北海道の部・函館』を参考にしたものであるが、
隣の時任町の町名は、昭和6年に町名改正時、函館県令の「時任為基」
の広大な農場があった事から名付けられた。柏木町も同じく昭和6年に
町名改正時点に柏の木が数多く繁生れしていた事から柏木町と名付
られた。乃木町は乃木神社があり、松陰町は五稜郭に植えた小松が
見事な松林になって展望されたことから松陰町と命名、的場町は旧
陸軍の射撃場があり射的場と言っていたことから的場町と名付られた。
人見町も昭和6年に、函館市大字亀田村の一部、湯の川通りで原野で
あったが地域一帯に植生していた柏の木が人影に見えたため、蜂起
したアイヌ民族が敗走したという伝説に基づいて昭和6年に時任町・
松陰町・柏木町・乃木町と共に『人見町』と命名されたものである。
また、現在の市道『松見通り』は、函館少年刑務所前から東山墓園
までの4.5キロだが、昔は人見町から松陰町の電車通りまでと短かっ
たが、昭和49年に「松陰」と「人見」を合わせて名付けられたもので、
この名付け親は人見町20番の故 中原正衛氏と資料に記載されている。
緑町通りにも由来がある、杉並町の電車通りから人見町5番25
(セブン・イレブン)人見町5番1号(ローソン)までの両側は高級
住宅街として建築に制約があり、道路面に庭を作り景観のために
数メートル奥に建物を建築する決まりがあり敷地面積も、300坪と
することになっていた。現在では様変わりしているがそれでも当時の
面影が随所に見受けられるのが緑町通りである。
交通の便も終戦後の復興に伴い、市営住宅、国鉄官舎が高層住宅と
して建設、人口も年毎に増加し、函館市交通局のドル箱路線として
昭和26年から人見線として営業を開始した。
人見交番・人見郵便局、不京米穀・酒・煙草店、その向かいに田辺
精肉店、餅・和菓子店、小野田金物店、石戸谷酒店、高木青果店、
蝦名理髪店、子供のおもちや店と昭和26年に開通した交通局バス路線の
開通とともに、商店街として住宅街として飛躍的に発展したのが人見町
である。