11 港まつり協賛行事 
 毎年実施される函館港祭り協賛行事、開港記念日に合わせて7月に実施
していたが、天候不順と寒さのため昭和30年代から現在の8月になった。
 昭和36年〜37年頃、親和会(現 人見南町会)の空き地を利用し両町会
合同で舞台を設置実施していたが、子ども達にとつて遠いと言う苦情がで
たため、人見町会として独自に現在の人見町バス停前(乃木町方向)に
舞台を設置した。当時は車両の往来はあまりなく市営バスとハイヤー・
タクシーくらいで自家用車は殆ど走っていなかった。
従つて交通の妨げにならず、港まつりを盛大にしようと市役所・協賛会の
意向に基づき警察署も道路使用許可をすぐだしていた。
 道路状況も現在のように中央分離帯もなく道幅の1/3に舞台を作り、
バスが通過する度に町会役員が誘導していた。市内至る所で道路を使用して
踊り舞台が設置され大勢の子ども・老若男女が踊りに参加函館市内全体が
賑やかであった。 その後、経済の発展と共に自家用車が増加交通事故
防止の立場から主要道路を使用した踊り舞台設置について中央警察署で
認められなくなり、昭和43年〜46年まで現在の道営住宅と不京商店の間の
道路利用していたが、この場所も危険であるとの見解で昭和47年より
人見町19番17号先道路で実施することになった。
 昭和57年に至り更に道路上での舞台設置に対する厳しい指導により、ア
ークひとみ(国鉄物資部)横道り5番44号に設置したが、昭和63年より道路
を使用しての固定式舞台は認められなくなった。
 急遽役員会で検討し移動式の舞台を作成、平成元年から使用した。しかし
それも束の間、路上での舞台設置は一切認められなくなり、警察署の指導と
港まつり実行委員会の見解として、地域内の空き地か公園などを選択して
ほしいと各町会に指導があった。この年から道路使用はいかなる理由が
あっても絶対認めないことになった。人見町港まつり実行委員会は、緊急
会議を開催し、やむなく中止の案も出されたが、子どもたちの喜ぶ姿、
父母そして孫の姿を楽しみにしている祖父母の事を考えるとき、何とし
ても舞台は必要であるとの判断から、ひとみ保育園に依頼して、固定した
舞台を設置しない、園児に迷惑をかけない、保育園の要望にも極力協力
するとの条件で保育園前庭を利用する了解をもらった。
 ひとみ保育園前庭は、近隣住宅と接していないことや交通事故の心配が
なく安全であることから、庭園中央に櫓を設置、平成21年度から竹の柱を
利用、電気の配線も町会独自の電源を確保し提灯・万国旗・テント2張り
観客用の椅子・大太鼓・子どもの遊び用具・綿菓子・ポップコーン・飲み
物などを用意して大人についても全て無料で、夏の夜を家族で楽しめる
ようになった。
  12 町内運動会

 会員の親睦のため運動会は最大の行事である、各家庭に自家用車の
ない時代であり会員もその日か来るのを子ども達は勿論、大人も心待
ちにしていたものである。
 会場は、現在の乃木町1番にある公務員宿舎の敷地が少年刑務所グラ
ンドであり、刑務所から借用して開催した、万国旗をたて、テーマソ
ングを人見町内に届くようボリュウムを上げて放送、子ども会が中心
となって宣伝のためポスター作り、至る所に掲示していた。
開催時間も9時〜午後3時までとし、見物場所も1区から15区間で区分し
お昼弁当持参で参加した。休憩時間には全員で輪を作り、港踊り・
盆踊りをしたものである。
 競技の対抗リレーでは、事前に各区毎に選手団を構成、対抗意識を
燃やしてその区以外の選手が参加してチームを編成していると他の
チームから苦情がでたりと熱の入れ方が違っていた。
 競技内容も、用具係りがてんてこ舞いする程種目にバラエティが
あった。
 昭和48年より刑務所グランドに公務員宿舎が建設されたことにより
会場を金堀小学校に変更した。又プログラムに御土産の引き換え券を
つけ会場で抽選会を実施したが、時間がかかり過ぎて57年で中止と
なった。 プログラムの印刷は業者に依頼していたが、58年度から
町会の印刷機で作成している。
 賞品については、婦人部が中心となり各項目毎に国鉄物資部・
スーパー・商店など算盤片手に分担して購入、予算額と購入額の算出
で夜遅くまで付け合わせし、翌日届いた賞品をプログラムに合わせて
区分けするなど大変な作業であった。
 平成になってから簡素化すべく、項目と予算額を記入し不京商店に
依頼するようになり作業は大幅に改善された。
用具などは全て金堀小学校から借用していた。
テント2張り・机15・椅子30・万国旗・ライン引き器・競技用ピストル
・リレーのバトン・綱引きの綱・紅白球入れ用具・賞旗・障害物の用具
その他あり、準備には相当苦労したが今では、ほどんと自前で準備でき
作業も短時間で完了するよう簡素化された。
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